昨日は、小学校からの幼馴染の結婚式でした。
同じ景色を見て育った友人は、自分に気軽に話をしてくれる貴重な存在です。
会話の中で、「今、会社をやってるんだー」と言うと、採用の話になりました。あれこれ過去に起きたことや方針などを話をしていたんですが、同じ幼馴染の一人に、中学校の教員をしている方(女性)がいて、「入試に推薦入試は必要か?」との議論になりました。
学校の入試でも、面接を課してしまうと、採用の評価は人に依存してしまうため、本当にその人が当該学校に資する人物なのか、学校側も判定できるのか?それに対して責任を果たせるのか?という疑問がある。したがって、ペーパーのみにした方が客観的であるのではないか?という提議でした。
昨今では、推薦・AO入試はどの大学でも、どの高校でも取り入れるようになりつつあると思います。彼女の意見も、現場の声として真実なのでしょう。
私自身の話をするならば、推薦やAO入試のような一般とは異なる方式に救われた人生を歩んできました。中学受験の時も不合格だったが、算数の成績のみで補欠合格となりました。大学受験では推薦入試を受けましたが、高校時代は国際関係を自分で勝手に勉強しており、その探求心の中で得た知識やらがそのまま入試の結果に反映されました。大学院も、数理、英語、そしてこれまでの経験を評価された面接で合格しています。
つまり、全くもって日本の一般の学生の入試経験はしていないのです。
その立場からするならば、推薦やAO入試は、「学力では測れない光るモノ」を持つ人に焦点を充てた選抜制度であり、その存在意義があるでしょう。私自身は、ペーパー試験での選抜も残して良いが、全ての入試にペーパーだけではなく面接も同時に課すなどしても良いのではないか、と考えます。
なぜか?
それは、企業の採用試験では「ペーパー+面接が当たり前だから」です。
企業の採用試験では、学力だけで採用することなどありえないことです。たとえペーパーの評価が高くても、それは一部の能力に過ぎず、活躍できる職種は限られてしまいます。企業には多様な職種が存在し、多様な活躍の機会があるため、多様な側面から人物を選ぶ必要がある、のです。にも関わらず、どうしてその育成機関である日本の教育業界では、ペーパー偏重な採用をしているのでしょうか。
もう少し構造的に日本の教育のことを考えると、次の二点が問題であると思います。
①教師は教えることのプロであって採用のプロではないこと
②入学が難しく、卒業が簡単な制度になっていること
①先生がペーパーだけで良い、と思うのは自然な感想です。なぜなら、民間企業での採用実務を経験しているわけでも無いし、学力を向上させることを目的に働いているからです。採用専門の人材が教育業界にいれば、その学校の校風や教育方針に合った人を採用できるのではないでしょうか。
②もう一つは、日本はとにかく入試が全てで、入試後の生活が疎かになる傾向があると思います。これだと、AO入試で入学した学生がその後、成績が奮わず卒業していくと、あんな人を卒業させるのか…となってしまいます。例えば米国と比較すると、米国は圧倒的に日本の大学と比べて単位を取るのが大変です。AOとかペーパーとか関係なく、しっかりとした退学システムがあります。
これも、社会の縮図だと思うんです。企業では、多面的に、この人は良いな!と思っても、やっぱり職種や社風と合わなかったり、ついていけなかったりして転職することはあるわけです。すなわち、何が良いたいかとうと、「社会や経済活動の自然の摂理と日本の教育活動の間には歪みが大きいのではないか」ということです。
アリストルでは、もちろん基礎的な事務処理能力は見ており、能力試験を現在では設けています。しかしながら、それだけではなく、多面的に人物を見定めようとする採用の仕組みを設けております。実際、入社してくれるほとんどの社員が「採用プロセスが他社とは全く異なり、人物を見てくれている」と言ってくれています。
日本の教育界を憂いてもどうしようもありませんが、何とかしたい。
自分の子供のことを考えると余計にそう思います。